大阪 梅田の占い師 菜々先生|タロットの休憩室・第二十夜 「火星と金星の磁石」ー前編ー

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2026.4.13 タロットの休憩室・第二十夜 「火星と金星の磁石」ー前編ー


 

その夜の休憩室には、

いつもより少しだけ、熱っぽい空気が混じっていた。

 

窓辺に座っていた星のカードが、

夜空を見上げたまま小さくつぶやく。

 

「今夜ランプが話そうとしているのは、

火星と金星みたいに、

どうしても惹かれ合ってしまう二人のことなんだって。」

 

隠者のランプが、

小さく明かりを揺らした。

 

「ええ。

本来なら、

そう簡単には交わらなかったはずの二人の話です。」

 



 

その日、彼女は南のターミナル駅にいた。

五年ぶりに会えた息子から、

思いがけない告白を聞かされた帰りだった。

大学を卒業した、その一か月後に婚姻していたこと。

その事実そのものよりも、

それを母として五年ものあいだ知らされずにいたことのほうが、

彼女の胸には深く刺さっていた。

 

会えなかった五年。

知らされなかった五年。

 

そのあいだ息子は、

別の家族の時間の中で、

正月をいくつも越していたのだと思うと、

彼女の心には、うまく言葉にできない空洞だけが残った。

 

そんなふうに、

ほとんど足元が崩れかけたみたいな気持ちでいた日に、

彼と出会った。

 

彼は、彼女をひと目見た瞬間に、

もう惹かれてしまったのだという。

 

少しだけ酒を飲み、

そのあと二人は喫茶店へ流れた。

 

そこで彼女が、

ぽつりぽつりと息子の話をこぼしたとき、

彼はぴたりと固まった。

 

そして次の瞬間、

胸の奥から何かが噴き出すみたいに、

強い声でこう言った。

 

「息子は、おかんのことが大好きで大好きでたまらんねん!!!」

けれど彼の言葉は、

それだけでは終わらなかった。

 

「……で、オカン大嫌いや!!!」

その叫びは、

彼女に向けられたものというより、

もっと古い、自分の中の深い傷口から

そのまま吹き出したように聞こえた。

 

彼はそのまま、

しばらく固まったように黙り込み、

やがて席を立ってトイレへ向かった。

 

戻ってきた彼は、

さっきまでとは少し違う顔をしていた。

 

そして彼女をまっすぐ見て、

苦しそうな声で言った。

 

「あんたは、こんな俺と一緒におったらあかんひとやねん。

あんたはもっと崇高な場所におるべきひとや。」

 

それは突き放す言葉のようでもあり、

祈るような告白のようでもあった。

 

自分の中の何かが彼女に触れてしまったことを、

彼自身がいちばん恐れていたのかもしれなかった。

 

その夜、彼は駅で彼女を見送った。

けれど、本当に切り離すことは彼にはできなかった。

 

見送ったあとのほうがむしろ、

彼の中の愛着の傷は強く疼き始める。

 

離れることそのものが、

彼にとっては古い喪失をもう一度なぞることになってしまったからだ。

 

時計で測れば、

一緒に過ごした時間は驚くほど少ない。

 

それなのに、そのひとつひとつの夜には、

ただ長いだけではない、

妙に深く沈みこんでいくような不思議さがあった。

 

 

ある夜、彼女がふとつぶやいた。

「なんか、鏡の向こう側に

もう一人の自分が座ってるみたいやね。」

 

彼は視線を落として、

少しだけ笑った。

 

「怖いくらい、そう思ってた。」

気持ちは、もう十分すぎるほど伝わっていた。

 

でも、それをはっきりした言葉に変えてしまえば、

ただ心だけでは済まないものまで動き出してしまう。

 

だから二人は、

いちばん大事なところだけを、

最後まで口にしないまま見つめていた。

 

しかも二人のあいだでは、

ときどき言葉より先に、

音が意味を運んでくることがあった。

 

誰かが選んだ一曲の歌詞や、

ふいに流れてきた旋律のほうが、

長い説明よりもずっと正確に、

そのときの心の中を言い当ててしまう。

 

彼が聴いている歌は、

彼の胸の中そのもののように聞こえたし、

彼女が受け取った響きは、

まるで自分の感情であるかのように身体へ入ってきた。

 

離れようと決めたはずの朝に、

どこからともなく流れてきた一曲が、

胸の奥で固めかけていた決心を、

あっけなく崩してしまうことがあった。

 

偶然と呼べばそれまでなのかもしれない。

けれど、そういうことが一度きりではなく、

短いあいだに幾度も続くと、

二人はだんだん、

音や出来事のほうが先に境界を越えてくる夜の存在を、

無視できなくなっていった。

 

そんなふうに、

自分ひとりでは抱えきれない引力の正体を、

彼女はとうとう師匠のもとへ持っていくことになる。

 

相手の出生時間まで、わかる限りの情報を抱えて。

 

師匠は、

カードを見る前に、

まず二人のホロスコープへ静かに目を落とした。

そして、しばらく黙ったあと、ぽつりと言った。

 

「これはな……

火星と金星が、右半球と左半球みたいにビタしてる。」

 

彼女は息をのんだ。

師匠は、

彼女の火星と彼の金星、

彼女の金星と彼の火星が、

離れた場所に立ちながらも、

ぴたりと相手の深いところへ触れていることを見ていた。

 

「そら、惹かれ合うのも無理はない。」

そのひと言は、

これまで説明のつかなかった引力に、

はじめて名前を与えるようでもあった。

 

けれど師匠は、

そこで言葉を甘いほうへは運ばなかった。

「……惹かれ合うことと、幸せになることは別やねん。」

 

そして彼女をまっすぐ見ながら、

静かに続けた。

 

「これから、あんたの気持ちがどうなっていくか……

みときや。」

そう言って師匠は、

マルセイユ版の古いタロットの箱から、

一枚を静かに抜いた。

 

そこに出ていたのは、

ソードの3だった。

 

胸の真ん中を、

一本の痛みがまっすぐ貫いている、あのカード。

 

それはただの失恋の札ではなかった。

どれだけ惹かれても、

どれだけ運命のように感じても、

その先で心が裂ける現実があるなら、

それもまた真実やでと、

師匠はその一枚で彼女を止めたのだった。

 



 

隠者のランプが、

そこで一度、灯りを細めた。

 

「火星と金星の磁石は、たしかに強力です。」

星のカードが、

窓辺で小さく目を伏せる。

 

「だから前編は、

ここでいったん終わるんだね。」

世界のカードが、

静かにうなずく。

 

「うん。

いちばん強い磁石には、

いちばん先に刃が入ることがある。

たぶん、この夜がそのはじまりだったんだ。」

 

ランプの灯りは、

その一枚のカードの上で、

しばらく静かに揺れていた。

 

まるで――

甘い引力だけでは進めない夜に、

最初の真実が置かれたことを、

誰にも急かさず見届けるように。

 

菜々