占い師の開運ブログ
- スピリチュアル編
その夜の休憩室は、いつもより少し静かだった。
隠者のランプは、角のテーブルの上で、小さな金色の灯りを揺らしている。
塔は珍しく騒がず、ソファに深く沈んだまま黙っていた。
星は窓辺に立ち、遠くを見ている。
愚者だけが、何か言いたそうにしながら、でも今夜は軽々しく口を開いてはいけない気がしているのか、椅子の上で足をぶらぶらさせていた。
その灯りの中で、菜々はひとつの関係のことを思っていた。
名前のない関係だった。
けれど、浅い関係ではなかった。
長く一緒にいた、という言葉だけでは足りない。
暮らしがあり、深夜の電話があり、不安な時に戻る場所があった。
母の姉を一緒に見送り、残されたお金も半分に分け合った。
法でも制度でも守られていないのに、日々の深いところでは、たしかに家族より近い時間を過ごしていた。
父と母の供養のために歩いた巡礼の道にも、その人は一緒にいた。
だからその十七年は、恋や暮らしだけでは言い切れない深さを持っていた。
失ったのは、恋人ではなかったのだと思う。
もっとややこしくて、もっと生活に近くて、
不安な夜に戻る場所そのもののような関係だった。
名前のない深い関係は、平穏なあいだは続いていく。
肩書きより、二人のあいだに何があるかのほうが大きいからだ。
けれど現実が動いた瞬間、その関係は急に脆くなる。
深さはあるのに、法的な名前がない。
立場がない。
すると、これだけ長く支え合ってきた相手であっても、最後には何も言えない人のように扱われてしまう。
私の十七年も、そうだった。
テレビ電話でしか話したことのない相手との婚姻が、私との十七年より先に、現実として優先された。
相手の事情が切迫していたことは、頭ではわかっていた。
でも、理解することと、黙って押し流されることは違う。
「事情があるから仕方ない」
その空気の中で、私の衝撃も、生活も、心の現実も、最初から数に入っていないようだった。
言われて二日後、私は荷物を出した。
そんな急に、人は動けない。
心は何ひとつ追いついていなかった。
それでも動くしかなかった。
生活を共有していた場所から、いきなり生きる土台ごと外へ出されるような感覚だった。
休憩室の隅で、塔が小さく目を伏せる。
ああいう時、崩れるのは建物だけではない。
人の中にある「ここへ帰れば大丈夫」という感覚そのものが、音を立てずに崩れることがある。
隠者のランプは、それを知っている灯りだった。
最後に病院で顔を合わせた時、私はひとつのことをはっきり思い知った。
相手は、私が譲っていることをわかっていた。
わかっていた上で、それを無かったことにして、自分の都合を通していた。
鈍かったのではない。
気づいていなかったのでもない。
わかったまま、そうしたのだ。
そのことが、最後の傷になった。
だから私は、最後の五分で言いたいことを言って、そのまま帰った。
別れの意思だけを静かに送り、それきりにした。
そのあと機嫌取りのような連絡は来たけれど、私は戻らなかった。
あれは、ただの失恋ではなかった。
生活ごと切られ、生きる土台を揺らされ、生存の感覚そのものを脅かされた出来事だった。
あの時それを“生存の土台を奪われるようなこと”だと感じたのは、誇張ではなく、切実な身体の叫びだったのだと思う。
実際、そのあと身体は壊れた。
血圧は揺れ、腸は止まり、熱も出て、肩まで固まった。
凍らせなければ、生き延びられなかった。
本当に大きな断絶は、心だけではなく、ちゃんと身体に降りてくる。
身体のほうが先に、
「これはただごとではない」と知ってしまうことがある。
それでも人間の世界は普通に回る。
相手もきっと、普通に暮らしているのだろう。
その不均衡は残酷だった。
私だけが人生の地面を失ったような気がした。
窓辺の星は何も言わない。
でも、灯りの下で傷を見つめる夜には、
世界が何事もなかったように回り続けることのほうが、
ときどき大きな雷より残酷だと知っている顔をしている。
けれど、それでも私は新しい場所へ移り、少しずつ暮らしを立て直してきた。
助けを借りながら生活が回り始めた時、ようやく身体が少しずつ理解し始めたのだと思う。
私はひとりではある。
でも、完全に無援で放り出されたわけではない。
ここで生きていけるかもしれない、と。
そうやって神経が少し緩んだからこそ、凍っていたものが今、少しずつ解け始めている。
私は恋人を失ったのではない。
名前のない十七年の中で、何かあれば戻れると思っていた避難所を失ったのだと思う。
そしてその十七年は、切られる時に声を持たされなかった。
たぶん、いちばん大きな傷はそこにある。
名前のない関係は、ときどきその痛みを説明する言葉すら持たない。
同じように、名前のない関係の中で揺れている人たちが、時々ぽつり、ぽつりと私のところへ来る。
そのたびに思う。
どうか、深い関係だったのに最後に何も言えないまま、
声を持たされない側へ押し流されるところまで行かないでほしい、と。
深さがあることと、守られていることは同じではない。
支え合っていることと、現実の場で立場があることも同じではない。
その違いを、どうか見失わないでほしい。
今の私は、やっと悲しみにのみ込まれきらないところまで来た。
だからこの話を書くことができる。
名前がなかったから、浅かったわけではない。
守られなかったから、存在しなかったわけでもない。
ただ、現実の前であまりにも無力にされただけだ。
そのことを、
誰にも取り消させないために。
今夜の灯りは、ここに残しておく。
菜々



