占い師の開運ブログ
- スピリチュアル編
その夜の休憩室は、いつもより少しだけ「起きて」いた。
塔はソファに深く沈み込んでいるのに、まだ目を閉じきれず、
ソード3は包帯を巻き直した手を膝の上に置いたまま、
どこか遠くのことを考えている。
隅のテーブルでは、隠者のランプがいつものように揺れている。
けれど今夜は、ランプの灯りが、
豆球みたいにいつもより少し小さく見えた。
部屋の片隅では、古い振り子時計が
コチ、コチ、と音を立てている。
昼間なら気にも留めないその音が、
今夜に限って、やけに大きく響いていた。
──そのとき。
休憩室の奥の方から、ふっと気配が動いた。
誰も扉を開けたはずがないのに、
ひとつのベッドが、そこに現れている。
薄い毛布。
膝を抱えて座ったひとりの影。
その背中の向こうの壁には、
九本のソードが、縦に並んで影を落としていた。
ソード9だ。
「今夜は、ここを借りてもいい?」
ソード9が、少し疲れた声で言う。
愚者が、リュックを抱えたまま、半分眠そうな顔を上げた。
「ねぇ、ソード9ってさ。
“悪い夢のカード”なんでしょ?」
ソード9は、ゆっくりと首を横に振る。
「ぼくは“夢”じゃないよ。
“眠れない夜にだけ呼ばれる、心の中の映写機”みたいなもの。」
ベッドの端には、小さな子どもの影も座っていた。
その腕の中には、柔らかい耳のついたぬいぐるみ。
ボタンの目が、じっとこちらを見ている。
子どもの影が、ぽつりと言う。
「目ぇつぶったら、
こわい映像がなんどもなんども出てくるの。」
ソード9は、ベッドの端に腰をかけた。
「うん。
それを夜にまとめて映すのが、ぼくの仕事なんだ。」
星が、窓辺からゆっくりと歩いてきた。
「どうして、夜になると増えるんでしょうね。
“こわい映像”や、“今日怒られた場面”ばかり。」
子どもの影が、小さな声でつぶやく。
「ママが怒った顔。
あしたもまた怒られたら、どうしようって思う顔。
“ごめんなさい”っていっても、
まだ怒ってるかもしれないって思う夜。」
ベッドの上の毛布が、きゅっと握りしめられる。
ぬいぐるみの柔らかい耳だけが、静かに揺れた。
隠者が、ランプを持って近づいてくる。
「昼間、“見ないことにしていた不安”は、
夜になると、だいたいソード9のところへ流れてきます。」
ソード9は、九本のソードを見上げた。
「これね。
どれも“新しく刺すための剣”じゃないんだ。
昼間、胸の中をかすめたのに、
そのまま棚に上げられてしまった思い出たち。」
一本は、「あのとき言い返せなかった言葉」。
一本は、「失敗した自分への責め言葉」。
一本は、「怒らないでほしかったのに、怒られた記憶」。
一本は、「本当は怖かったのに、『平気』って笑った自分」。
「それが夜になると、
“まだここにいるよ”って名乗り出てくる。」
星が、ベッドの側に腰をおろす。
「じゃあ、ソード9は、
“壊すためのカード”じゃなくて、
“まだほどけていない結び目”を照らしているだけ、なんですね。」
ソード9は、小さく笑った。
「そう。
ただ、タイミングが悪いんだよね。
いちばん疲れている時間に、まとめて来ちゃうから。」
そのときだった。
ベッドの足元のほうに、
名前のついていない、灰色の影がふっと現れた。
はっきりした顔も、輪郭もない。
けれど、その場にいる誰もが、
その影の名を知っていた。
「……“怖い”だ。」
愚者が、ちいさな声でつぶやく。
怖いは、何も言わない。
ただ、ベッドの端に腰を下ろして、
子どもの影と同じ方向を向いて座った。
時計のコチコチという音だけが、少し大きくなる。
隠者は、ランプの火を少しだけ強くした。
「怖いは、追い出そうとすると大きくなります。
でも、椅子をひとつ用意して、
“そこに座っていていいよ”と言われると——」
星が、続きを引き取る。
「ただ“そこにいる係”に変わるんですね。」
ソード9は、うなずいた。
「そう。
あるカードが、昔こんなふうに教えてくれたことがある。」
ソード9は、ベッドの上で膝を抱える子どもに向かって、
静かに言葉を置いていく。
「怖いは来るよ。
でも、いてるだけで、何もしないことも多い。
朝になったら、ちゃんとどこかへ帰っていく。」
子どもの影が、少しだけ顔を上げる。
「ほんとに?」
「うん。」
ソード9は、壁の九本の剣を見上げる。
「ぼくは、“朝のカード”じゃないから分かる。
ぼくの担当は、“夜のあいだだけ”だから。」
ぬいぐるみの耳が、
子どものほうへ、そっと傾いた。
隠者のランプが、その耳とボタンの目を照らす。
「ほら。」
隠者が言う。
「柔らかい耳は、ちゃんとあなたの声を聞いています。
ボタンの目は、ちゃんとあなたを見ています。」
子どもの影は、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。
「……この子は怒らないから、すき。」
星が、ふっと笑う。
「怒らない相手に、
夜のことを全部話してしまえるといいですね。
それが、朝への“橋渡し”になるから。」
ソード9は、ベッドの脇にもう一脚、小さな椅子を出した。
ひとつは、怖いのための椅子。
もうひとつは、「話を聞くぬいぐるみ」のための椅子。
「怖いは、追い出さなくていい。
でも、主役の席までは渡さなくていい。」
ソード9は、そう言って笑った。
「主役は、あなたの胸の中の小さな呼吸と、
このぬいぐるみの耳と目だから。」
豆球みたいなランプの灯りが、
ゆっくりと、ベッドのまわりを包んでいく。
時計のコチコチも、
さっきより少しだけ遠くに聞こえはじめた。
人間たちの世界では今日も、
どこかで豆球の下、眠れずに天井を見ている人がいる。
目を閉じると、怖い映像ばかりが流れてくる夜。
コチコチいう時計の音が、やけに大きく聞こえる夜。
「寝なきゃ」「考えるのやめなきゃ」と思えば思うほど、
心だけがどんどん目を覚ましてしまう時間。
もし今、
そんなソード9の夜のまっただ中にいる人がいたら——
その人のベッドの端には、
もしかしたら“怖い”が、もう座っているのかもしれません。
追い出されるのを待ちながら、
でも本当は「ただ、ここにいてもいい?」と言いたそうにしながら。
そのときは、心の中でそっと、
こんなふうに声をかけてあげられますように。
「今日は来たんだね。
そこに座ってていいよ。
でも、主役は渡さないからね。
朝になったら、ちゃんと帰ってね。」
そしてもし、
枕元にぬいぐるみやクッションや毛布がいたら、
それを「怒らない聞き役」にしてみるのもいいかもしれません。
柔らかい耳は、ちゃんと全部を聞いてくれていて、
ボタンの目や布の目は、ちゃんとあなたを見ていてくれる。
ソード9は
「あなたを壊すための絶望のカード」ではなく、
「まだほどけていない夜の結び目が、ここにあるよ」と
そっと教えてくれる札なのかもしれません。
今日もどこかで、
眠れない豆球の夜をひとつ越えて、
「怖いは来るけど、朝になったら帰っていくんだ」と
少しだけ知っていく心に——
タロットの休憩室から、
小さなランプの灯りと、
怒らないぬいぐるみの耳が、
そっと寄り添っていますように。
菜々



