大阪 梅田の占い師 菜々先生|タロットの休憩室・第十八夜 「星時計の夜」— 動かない時計

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2026.4.6 タロットの休憩室・第十八夜 「星時計の夜」— 動かない時計


その夜の休憩室は、

いつもより少しだけ、時間の流れがゆっくりに感じられた。

 

隠者のランプが、

いつもより細く長い炎でゆらゆらと灯り、

星は窓辺で、

遠くのネオンサインを眺めている。

 

「……今夜は、“星時計”の話をしようか。」

ランプがそう言うと、

テーブルの上に、ひとつの光景がすっと浮かび上がった。

 

⸺

 

それは、真夜中の少し手前。

街のシャッターがほとんど降りてしまったあとも、

まだ灯りを消さないでいる、古い喫茶店だった。

 

壁の高いところには、

文字盤の代わりに小さな星座が描かれた、古い掛け時計がひとつ。

その星座たちの真ん中で伸びる針は、

まるで動かない時計に見えるのに、

どこかで、かすかに「チチ……」と音だけが続いている。

 

この店を、

二人は勝手に「星時計の喫茶店」と呼ぶようになる。

 

扉が開いた瞬間、

彼女と彼は、ほとんど同時に声をあげてしまった。

 

「あっ。」

 

再会でもない。

初めて会うのに、

なぜか「知っている誰か」に出会ったときのような、

胸の奥がざわりと動く感じ。

 

彼は、少し年下の社会人で、

不思議なほど世間知らずなところがあった。

終電の時刻さえ、あまりよく分かっていない。

 

彼女は、まだ今のような占い師ではなく、

「ここから先の自分」を探していた頃。

 

二人は向かい合って座り、

コーヒーをひと口飲んでは、

互いのこれまでの話を少しずつ出し合った。

 

子どもの頃の話。

仕事の話。

家族の話。

これまでの恋の話。

 

話せば話すほど、二人は何度も小さく笑っては、顔を見合わせた。

 

育ってきた家の空気。

人を好きになる速度。

孤独がとても怖いこと。

子どものころ好きだった「ノンタン」の話まで、

驚くほど同じところでうなずいてしまう。

 

まるで、自分を鏡に映したもうひとりが、

向かい側の席に座っているみたいだった。

 

どれも、特別な出来事というわけではないのに、

言葉が、驚くほど自然にほどけていった。

 

星時計の針は、

相変わらずほとんど動いていないように見える。

それでも、

ガラス越しの星座たちは、

二人のあいだに流れる時間を、静かに見守っていた。

 

気づけば、外は真夜中をすっかり通り過ぎて、

始発前の静けさが街を包んでいた。

 

「……もう、こんな時間なんだ。」

 

彼がそう言ったとき、

彼女は内心で少しだけ笑った。

(本当に、この人は不思議な人だな。

こんな時間まで話しておいて、

今、やっと時間に気づくなんて。)

 

⸺

 

やがて二人は、

星時計の喫茶店を出て、駅まで歩いた。

 

夜明け前の空は、まだ群青色で、

遠くのビルの輪郭だけが、ゆっくりと滲んでいく。

 

改札の前で、二人は立ち止まる。

 

彼はうつむいたまま、

少し照れたように、

けれど何かをこらえるみたいな顔で、

片手をひらりと振った。

 

「じゃあ、また。」

 

その一言だけだったのに、

二人の胸のどこかで、

何かが「カチ」と鳴った気がした。

 

家に帰ったあと、

四日間、二人は一切連絡を取らなかった。

 

電話をしようとして、やめる。

メッセージを書いては、消す。

 

お互いに、ぎりぎりのところで踏みとどまりながら、

「好きになってしまったら、また辛くなるかもしれない未来」を、

それぞれの部屋で想像していた。

 

四日目の夜。

先に沈黙を破ったのは、彼のほうだった。

 

「まだ、起きてる?」

 

たったそれだけの言葉が、

星時計の長針と短針を、

ほんの少しだけ前へ進めた。

 

そこからの二人は、

少しずつ近づいていった、というより、

もう離れていることのほうが不自然になってしまった。

 

四日間、互いに連絡を飲み込んでいたぶんだけ、

いったん動き始めた時間は、

堰を切った水みたいに、静かに、それでいてどうしようもなく流れ出した。

 

彼女が仕事を終えて帰ってくると、

アパートの階段に彼が座っている夜があった。

 

うつむいたまま、少し照れたように、

少し困ったように、

小さな声で「また来ちゃった」とつぶやく。

 

そのひとことに、

彼女は叱ることも、笑うこともできず、

ただ胸の奥だけが、どうしようもなく熱くなった。

 

会っていない時間まで、

どこかでつながってしまっているようだった。

 

今日は沈んでいるのかな、と思うと、

少し遅れて彼から短い言葉が届く。

彼がふいに明るくなる日は、

理由もないのに、彼女の胸の重さも少しだけ軽くなる。

 

離れているはずなのに、

離れている感じがしない。

 

それは恋というより、

はぐれていた片割れがようやく見つかったみたいな、

説明のつかない感覚だった。

 

二人は、

好きだと確かめ合う前から、

もう互いに惹かれていることを知っていた。

 

知っていながら、

その不思議さをうまく言葉にできないまま、

ただ会えばほっとして、

離れれば、もう次に会いたくなってしまう。

 

あの星時計の喫茶店で始まった夜は、

たった一晩だったはずなのに、

そのあと二人のあいだには、

現実の時間とは少し違う、

もうひとつの時間が流れ始めていたのだと思う。

 

それは、若さゆえの激しさとも、

ただの寂しさの埋め合わせとも少し違っていた。

 

もっと静かで、

もっと深いところで、

「この人を知っている」と先に心が思い出してしまうような近さ。

 

だからこそ、

その季節は一瞬で燃え尽きるようなものでは終わらなかった。

 

二人はそのあと二年ほど、

まるで離れていることが不自然みたいに、

日々の時間を共有するようになる。

 

彼は、子どもみたいな言い方で、

「おじいちゃんになっても、おばあちゃんになっても一緒にいる」

と、妙にまっすぐな顔で言った。

 

その言葉がどこまで未来を知っていたのかは分からない。

けれど少なくともあの頃の二人は、

ほんとうに、そんなふうにずっと続いていくのだと、

疑いもせずに信じていた。

 

駒ヶ根のおじさんは、

二人のことを見て、ただ一言、

「この二人はソウルメイトだね」

と言った。

彼女は驚きながらも、

どこかで

「ああ、やっぱりそう見えるんだ」

と思ってしまった。

 

⸺

 

そして、そのあと…

二人の時間はやがて、別のかたちで終わりへ向かっていく。

 

事情は最後まで全部は分からないまま。

預けたまま返ってこないものも、

言えずじまいになった言葉も、

いくつかは、そのまま宙に浮いてしまった。

 

それでも――

あの夜、星時計の下のテーブルに並んで座った時間だけは、

誰にも奪えない「一晩分の世界」として、

どこかに静かに残り続けている。

 

そして、あの夜から始まった季節もまた、

たとえいまはもう手の中になくても、

確かに生きた時間として、

心のどこかに灯り続けている。

 

ずいぶん時間が経ってから、

菜々はひとりで、その喫茶店に何度か足を運んだ。

 

メニューの端っこに小さく載っていたオムライスを頼んでみたら、

担々麺でもパスタでもない、

びっくりするくらいやさしい味がした。

「あぁ、こんな味の夜だったな」と、

そのとき、ふっと胸の奥がゆるんだ。

 

あの夜ふたりで座っていた席には、

別の誰かが座っていることもあった。

だから菜々は、少し離れた席から星時計を眺めながら、

静かにごはんだけ食べて帰る夜を、

何度かくり返した。

 

そして何度目かの夜、

ふと扉を開けると、

その席だけが、ぽっかり空いている日があった。

 

菜々は少しだけ迷ってから、

「お借りしますね」と心の中でつぶやいて、

そっとその席に腰をおろした。

 

壁の高いところの星座の時計は、

相変わらず、まるで動かない時計みたいに見えるのに、

どこかで、かすかに「チチ……」と音だけが続いていた。

 

その夜、針がひと目盛りだけ「カチ」と進んだような気がしたのは、

きっと気のせいではなかったのだと思う。

 

人生のどこかで、

「あの夜の席」にもう一度だけ座り直すことで、

遅れていた時計の針が、

静かに前へ進むことがあるのかもしれない。

 

隠者のランプは、

その光景を見届けるように、小さく炎を揺らした。

 

「たぶんあの夜、

彼らは『初めて会った』んじゃなくて、

“ようやく今の人生で会えた”だけなんでしょうね。」

 

星は、窓の外の空を眺めながら、

小さくうなずいた。

 

「だからこそ、

あのテーブルは、ちゃんと“あった”時間なんだと思う。」

 

菜々