占い師の開運ブログ
- スピリチュアル編
その夜の休憩室は、
いつもより少しだけ、時間の流れがゆっくりに感じられた。
隠者のランプが、
いつもより細く長い炎でゆらゆらと灯り、
星は窓辺で、
遠くのネオンサインを眺めている。
「……今夜は、“星時計”の話をしようか。」
ランプがそう言うと、
テーブルの上に、ひとつの光景がすっと浮かび上がった。
⸺
それは、真夜中の少し手前。
街のシャッターがほとんど降りてしまったあとも、
まだ灯りを消さないでいる、古い喫茶店だった。
壁の高いところには、
文字盤の代わりに小さな星座が描かれた、古い掛け時計がひとつ。
その星座たちの真ん中で伸びる針は、
まるで動かない時計に見えるのに、
どこかで、かすかに「チチ……」と音だけが続いている。
この店を、
二人は勝手に「星時計の喫茶店」と呼ぶようになる。
扉が開いた瞬間、
彼女と彼は、ほとんど同時に声をあげてしまった。
「あっ。」
再会でもない。
初めて会うのに、
なぜか「知っている誰か」に出会ったときのような、
胸の奥がざわりと動く感じ。
彼は、少し年下の社会人で、
不思議なほど世間知らずなところがあった。
終電の時刻さえ、あまりよく分かっていない。
彼女は、まだ今のような占い師ではなく、
「ここから先の自分」を探していた頃。
二人は向かい合って座り、
コーヒーをひと口飲んでは、
互いのこれまでの話を少しずつ出し合った。
子どもの頃の話。
仕事の話。
家族の話。
これまでの恋の話。
話せば話すほど、二人は何度も小さく笑っては、顔を見合わせた。
育ってきた家の空気。
人を好きになる速度。
孤独がとても怖いこと。
子どものころ好きだった「ノンタン」の話まで、
驚くほど同じところでうなずいてしまう。
まるで、自分を鏡に映したもうひとりが、
向かい側の席に座っているみたいだった。
どれも、特別な出来事というわけではないのに、
言葉が、驚くほど自然にほどけていった。
星時計の針は、
相変わらずほとんど動いていないように見える。
それでも、
ガラス越しの星座たちは、
二人のあいだに流れる時間を、静かに見守っていた。
気づけば、外は真夜中をすっかり通り過ぎて、
始発前の静けさが街を包んでいた。
「……もう、こんな時間なんだ。」
彼がそう言ったとき、
彼女は内心で少しだけ笑った。
(本当に、この人は不思議な人だな。
こんな時間まで話しておいて、
今、やっと時間に気づくなんて。)
⸺
やがて二人は、
星時計の喫茶店を出て、駅まで歩いた。
夜明け前の空は、まだ群青色で、
遠くのビルの輪郭だけが、ゆっくりと滲んでいく。
改札の前で、二人は立ち止まる。
彼はうつむいたまま、
少し照れたように、
けれど何かをこらえるみたいな顔で、
片手をひらりと振った。
「じゃあ、また。」
その一言だけだったのに、
二人の胸のどこかで、
何かが「カチ」と鳴った気がした。
家に帰ったあと、
四日間、二人は一切連絡を取らなかった。
電話をしようとして、やめる。
メッセージを書いては、消す。
お互いに、ぎりぎりのところで踏みとどまりながら、
「好きになってしまったら、また辛くなるかもしれない未来」を、
それぞれの部屋で想像していた。
四日目の夜。
先に沈黙を破ったのは、彼のほうだった。
「まだ、起きてる?」
たったそれだけの言葉が、
星時計の長針と短針を、
ほんの少しだけ前へ進めた。
そこからの二人は、
少しずつ近づいていった、というより、
もう離れていることのほうが不自然になってしまった。
四日間、互いに連絡を飲み込んでいたぶんだけ、
いったん動き始めた時間は、
堰を切った水みたいに、静かに、それでいてどうしようもなく流れ出した。
彼女が仕事を終えて帰ってくると、
アパートの階段に彼が座っている夜があった。
うつむいたまま、少し照れたように、
少し困ったように、
小さな声で「また来ちゃった」とつぶやく。
そのひとことに、
彼女は叱ることも、笑うこともできず、
ただ胸の奥だけが、どうしようもなく熱くなった。
会っていない時間まで、
どこかでつながってしまっているようだった。
今日は沈んでいるのかな、と思うと、
少し遅れて彼から短い言葉が届く。
彼がふいに明るくなる日は、
理由もないのに、彼女の胸の重さも少しだけ軽くなる。
離れているはずなのに、
離れている感じがしない。
それは恋というより、
はぐれていた片割れがようやく見つかったみたいな、
説明のつかない感覚だった。
二人は、
好きだと確かめ合う前から、
もう互いに惹かれていることを知っていた。
知っていながら、
その不思議さをうまく言葉にできないまま、
ただ会えばほっとして、
離れれば、もう次に会いたくなってしまう。
あの星時計の喫茶店で始まった夜は、
たった一晩だったはずなのに、
そのあと二人のあいだには、
現実の時間とは少し違う、
もうひとつの時間が流れ始めていたのだと思う。
それは、若さゆえの激しさとも、
ただの寂しさの埋め合わせとも少し違っていた。
もっと静かで、
もっと深いところで、
「この人を知っている」と先に心が思い出してしまうような近さ。
だからこそ、
その季節は一瞬で燃え尽きるようなものでは終わらなかった。
二人はそのあと二年ほど、
まるで離れていることが不自然みたいに、
日々の時間を共有するようになる。
彼は、子どもみたいな言い方で、
「おじいちゃんになっても、おばあちゃんになっても一緒にいる」
と、妙にまっすぐな顔で言った。
その言葉がどこまで未来を知っていたのかは分からない。
けれど少なくともあの頃の二人は、
ほんとうに、そんなふうにずっと続いていくのだと、
疑いもせずに信じていた。
駒ヶ根のおじさんは、
二人のことを見て、ただ一言、
「この二人はソウルメイトだね」
と言った。
彼女は驚きながらも、
どこかで
「ああ、やっぱりそう見えるんだ」
と思ってしまった。
⸺
そして、そのあと…
二人の時間はやがて、別のかたちで終わりへ向かっていく。
事情は最後まで全部は分からないまま。
預けたまま返ってこないものも、
言えずじまいになった言葉も、
いくつかは、そのまま宙に浮いてしまった。
それでも――
あの夜、星時計の下のテーブルに並んで座った時間だけは、
誰にも奪えない「一晩分の世界」として、
どこかに静かに残り続けている。
そして、あの夜から始まった季節もまた、
たとえいまはもう手の中になくても、
確かに生きた時間として、
心のどこかに灯り続けている。
ずいぶん時間が経ってから、
菜々はひとりで、その喫茶店に何度か足を運んだ。
メニューの端っこに小さく載っていたオムライスを頼んでみたら、
担々麺でもパスタでもない、
びっくりするくらいやさしい味がした。
「あぁ、こんな味の夜だったな」と、
そのとき、ふっと胸の奥がゆるんだ。
あの夜ふたりで座っていた席には、
別の誰かが座っていることもあった。
だから菜々は、少し離れた席から星時計を眺めながら、
静かにごはんだけ食べて帰る夜を、
何度かくり返した。
そして何度目かの夜、
ふと扉を開けると、
その席だけが、ぽっかり空いている日があった。
菜々は少しだけ迷ってから、
「お借りしますね」と心の中でつぶやいて、
そっとその席に腰をおろした。
壁の高いところの星座の時計は、
相変わらず、まるで動かない時計みたいに見えるのに、
どこかで、かすかに「チチ……」と音だけが続いていた。
その夜、針がひと目盛りだけ「カチ」と進んだような気がしたのは、
きっと気のせいではなかったのだと思う。
人生のどこかで、
「あの夜の席」にもう一度だけ座り直すことで、
遅れていた時計の針が、
静かに前へ進むことがあるのかもしれない。
隠者のランプは、
その光景を見届けるように、小さく炎を揺らした。
「たぶんあの夜、
彼らは『初めて会った』んじゃなくて、
“ようやく今の人生で会えた”だけなんでしょうね。」
星は、窓の外の空を眺めながら、
小さくうなずいた。
「だからこそ、
あのテーブルは、ちゃんと“あった”時間なんだと思う。」
菜々



