大阪 占い師 菜々先生の記事 タロットの休憩室・第十七夜 「桜いろの約束」

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2026.4.3 タロットの休憩室・第十七夜 「桜いろの約束」


椅子をすり替えられるみたいに、

気がつけば自分の席がなくなっている。

そんな恋の話をしたあとの休憩室には、

少し冷えた空気が残っていた。

 

けれど、本当は人を好きになることって、

そんなに苦しいものとして始まるわけじゃない。

 

春の桜の淡いピンクが、

ふわりと身体を包み込むみたいにやさしかったり。

菜の花畑の黄色が、

まぶしすぎて思わず目を細めるほど明るかったり。

 

恋のはじまりには、

ほんとうはそういう、

やわらかくて可愛い色が似合うのだと思う。

 

星が、まだ少し冷えたままの部屋の空気を見上げて、

小さくつぶやいた。

 

「恋って、

最初から椅子を失う話ばかりじゃないんだよね。」

 

隠者のランプが、やわらかく灯りを揺らす。

 

「ええ。

今夜は、もっとずっと小さくて、

もっとやわらかい頃の話です。」

 



 

まだ三歳くらいの頃。

菜々は、ひろしくんと手をつないでいた。

 

「大きくなったらお嫁さんになってね。」って

そんなことを、約束とも知らずに口にしてしまえる年頃だった。

 

その言葉には、

重さも、責任も、

もちろん“永遠”なんて意味もなかった。

ただ、その場にある可愛い気持ちが、

まっすぐそのまま言葉になっただけだった。

 

ふたりの手には虫取り網があった。

お店で買った立派なものではなくて、

お母さんが菜々のシミーズを切って作ってくれた網だった。

少しだけいびつで、

少しだけ頼りなくて、

でも、そのぶん家の匂いがするような、

やさしい網だった。

 

春の光の中で、

その網を持って、

小さな手をつないで歩いているだけで、

世界はそれで充分だったのだと思う。

 

好きって、

胸が痛くなることではなくて、

ただ「一緒にいる」が当たり前みたいに感じられること。

明日もまた会えると思っていること。

手を放しても、

またすぐ隣に戻ってこられると信じていること。

 

そういうやわらかなものとして、

恋は始まる。

 



 

カップのページが、

机の上に置かれた小さな網をのぞきこむみたいにして言った。

 

「かわいいね。」

 

「うん。」と星が笑う。

「まだ“恋”って知らないまま、

もう恋してる感じ。」

 

隠者は、その言葉に少しだけ目を細めた。

 

「そうです。

人は“恋”という名前を覚えるより先に、

先にその色や温度を知ってしまうことがあるのです。」

 



 

けれど、

どんなにやわらかな春にも、

ずっと同じ形ではいられない時がくる。

 

ひろしくんは、引っ越していってしまった。

 

それは大人の別れみたいに、

「さようなら」をちゃんと言い合って終わるものではなかった。

ふたりのあいだに、

きちんとしたお別れの場面があったわけではない。

 

大人たちが何かを話し、

何かを済ませて、

そのあとで、

ひろしくんはもうそこにいなくなっていた。

 

そしてその子は、

あとから「引っ越した」と知らされる。

 

昨日まで当たり前みたいに隣にいた子が、

ある日からもういない。

それがどういうことなのか、

まだ小さな心にはうまく言葉にならなかったけれど、

それでも何かがひとつ、

春の景色の中から静かに抜けてしまったことだけはわかった。

 

もう一緒に虫取り網を持って歩けないこと。

手をつないで、

大きくなったらお嫁さんになってね、

なんて言えないこと。

 

明日もまた会えると、

何の疑いもなく思っていた春が、

そうではなくなってしまったこと。

 

たぶんあの頃のその子は、

失恋という言葉も知らないまま、

胸の中に小さな空白だけを残されたのだと思う。

 

それは大きな傷というより、

春の匂いの中にそっとまぎれて残る、

少し甘くて、少しだけ胸の奥がきゅっとする色だった。

 

だから恋というのは、

「恋」という名前を覚えるより先に、

先にいなくなってしまうことがある。

 



 

星が、少しだけ遠くを見るように言った。

 

「こういう恋もあるんだね。

失うんだけど、まだ苦しすぎない恋。」

 

「ええ。」とランプはうなずく。

 

「痛みはあっても、

まだ世界そのものを疑うほどではない別れ。

そのかわり、

とても淡く、

とてもきれいな色のまま残るのです。」

 

「桜みたいに?」

とページが聞くと、

ランプは静かに笑った。

 

「そう。

触れようとすると消えてしまいそうなのに、

見上げるたび、たしかにそこにあったとわかるもの。

恋のはじまりは、ときどきそういうふうに残ります。」

 



 

人を好きになることは、

本当はもっと可愛くて、

もっとやわらかいものだったのだと思う。

 

手をつないで歩くこと。

また明日も会えると信じていること。

それだけで胸が満たされていた、

あの小さな春の時間。

 

だからこそ、そのあとに訪れる恋は、

もっと深く、もっと静かに、

人の心へ届いてくるのかもしれない。

 

ワンドのナイトが、小さな虫取り網を見つめて言う。

「じゃあ、この次の夜は

もう少し大きくなった恋の話なんだね。」

 

「そうです」と隠者のランプが答える。

「春のやわらかい色を通り抜けたあとに、

人はもう一度、

時をともなった恋に触れるのです。」

 

星がそっと顔を上げる。

「それが、星時計の夜?」

 

ランプは答えず、

ただその灯りを少しだけ深くした。

 

菜々