占い師の開運ブログ
- スピリチュアル編
椅子をすり替えられるみたいに、
気がつけば自分の席がなくなっている。
そんな恋の話をしたあとの休憩室には、
少し冷えた空気が残っていた。
けれど、本当は人を好きになることって、
そんなに苦しいものとして始まるわけじゃない。
春の桜の淡いピンクが、
ふわりと身体を包み込むみたいにやさしかったり。
菜の花畑の黄色が、
まぶしすぎて思わず目を細めるほど明るかったり。
恋のはじまりには、
ほんとうはそういう、
やわらかくて可愛い色が似合うのだと思う。
星が、まだ少し冷えたままの部屋の空気を見上げて、
小さくつぶやいた。
「恋って、
最初から椅子を失う話ばかりじゃないんだよね。」
隠者のランプが、やわらかく灯りを揺らす。
「ええ。
今夜は、もっとずっと小さくて、
もっとやわらかい頃の話です。」
⸺
まだ三歳くらいの頃。
菜々は、ひろしくんと手をつないでいた。
「大きくなったらお嫁さんになってね。」って
そんなことを、約束とも知らずに口にしてしまえる年頃だった。
その言葉には、
重さも、責任も、
もちろん“永遠”なんて意味もなかった。
ただ、その場にある可愛い気持ちが、
まっすぐそのまま言葉になっただけだった。
ふたりの手には虫取り網があった。
お店で買った立派なものではなくて、
お母さんが菜々のシミーズを切って作ってくれた網だった。
少しだけいびつで、
少しだけ頼りなくて、
でも、そのぶん家の匂いがするような、
やさしい網だった。
春の光の中で、
その網を持って、
小さな手をつないで歩いているだけで、
世界はそれで充分だったのだと思う。
好きって、
胸が痛くなることではなくて、
ただ「一緒にいる」が当たり前みたいに感じられること。
明日もまた会えると思っていること。
手を放しても、
またすぐ隣に戻ってこられると信じていること。
そういうやわらかなものとして、
恋は始まる。
⸺
カップのページが、
机の上に置かれた小さな網をのぞきこむみたいにして言った。
「かわいいね。」
「うん。」と星が笑う。
「まだ“恋”って知らないまま、
もう恋してる感じ。」
隠者は、その言葉に少しだけ目を細めた。
「そうです。
人は“恋”という名前を覚えるより先に、
先にその色や温度を知ってしまうことがあるのです。」
⸺
けれど、
どんなにやわらかな春にも、
ずっと同じ形ではいられない時がくる。
ひろしくんは、引っ越していってしまった。
それは大人の別れみたいに、
「さようなら」をちゃんと言い合って終わるものではなかった。
ふたりのあいだに、
きちんとしたお別れの場面があったわけではない。
大人たちが何かを話し、
何かを済ませて、
そのあとで、
ひろしくんはもうそこにいなくなっていた。
そしてその子は、
あとから「引っ越した」と知らされる。
昨日まで当たり前みたいに隣にいた子が、
ある日からもういない。
それがどういうことなのか、
まだ小さな心にはうまく言葉にならなかったけれど、
それでも何かがひとつ、
春の景色の中から静かに抜けてしまったことだけはわかった。
もう一緒に虫取り網を持って歩けないこと。
手をつないで、
大きくなったらお嫁さんになってね、
なんて言えないこと。
明日もまた会えると、
何の疑いもなく思っていた春が、
そうではなくなってしまったこと。
たぶんあの頃のその子は、
失恋という言葉も知らないまま、
胸の中に小さな空白だけを残されたのだと思う。
それは大きな傷というより、
春の匂いの中にそっとまぎれて残る、
少し甘くて、少しだけ胸の奥がきゅっとする色だった。
だから恋というのは、
「恋」という名前を覚えるより先に、
先にいなくなってしまうことがある。
⸺
星が、少しだけ遠くを見るように言った。
「こういう恋もあるんだね。
失うんだけど、まだ苦しすぎない恋。」
「ええ。」とランプはうなずく。
「痛みはあっても、
まだ世界そのものを疑うほどではない別れ。
そのかわり、
とても淡く、
とてもきれいな色のまま残るのです。」
「桜みたいに?」
とページが聞くと、
ランプは静かに笑った。
「そう。
触れようとすると消えてしまいそうなのに、
見上げるたび、たしかにそこにあったとわかるもの。
恋のはじまりは、ときどきそういうふうに残ります。」
⸺
人を好きになることは、
本当はもっと可愛くて、
もっとやわらかいものだったのだと思う。
手をつないで歩くこと。
また明日も会えると信じていること。
それだけで胸が満たされていた、
あの小さな春の時間。
だからこそ、そのあとに訪れる恋は、
もっと深く、もっと静かに、
人の心へ届いてくるのかもしれない。
ワンドのナイトが、小さな虫取り網を見つめて言う。
「じゃあ、この次の夜は
もう少し大きくなった恋の話なんだね。」
「そうです」と隠者のランプが答える。
「春のやわらかい色を通り抜けたあとに、
人はもう一度、
時をともなった恋に触れるのです。」
星がそっと顔を上げる。
「それが、星時計の夜?」
ランプは答えず、
ただその灯りを少しだけ深くした。
菜々



