占い師の開運ブログ
- スピリチュアル編
その夜の休憩室は、少しだけ騒がしかった。
塔はコーヒーのおかわりを入れに立ち上がり、
ソード3は新しい包帯の巻き方を試している。
隠者のランプは、いつものように、角のテーブルの上で静かに揺れていた。
そこへ——
「……ただいまぁぁぁ……」
入口のドアががらりと開いて、聞き慣れた声が転がり込んできた。愚者だ。
いつものように軽やかに、とはいかず、今日は少しだけ足取りが重い。
肩からかけた小さなリュックを、入り口のところで、どさりと床に落とす。
「重た……。
ねぇ、誰か、この中身、見てくれない?」
星が目を丸くする。
「えっ、いつもは『ボク、何も持ってないよ〜』って
笑ってるくせに。」
愚者は、少し困ったように笑った。
「……そう思ってたんだけどさ。
今日、ふと気づいたんだよね。
“このリュック、ほんとはとんでもなく重いんじゃないか”って。」
——隠者が、ランプを持って近づいてくる。
「では、少しだけ、照らしてみましょうか」
ランプの灯りが、愚者のリュックの上にやさしく落ちる。
紐を解いて、口をそっと開くと——中には、見慣れたものがぎゅうぎゅうに詰まっていた。
ひとつは、小さなワンド。
まだ芽吹いたばかりの火の種のような棒。
ひとつは、透き通ったカップ。
まだ何色にも染まっていない水面が、静かに揺れている。
ひとつは、細いソード。
刃は光っているのに、まだ何も斬ったことがない。
ひとつは、ちいさなペンタクル。
価値があるのかどうか、自分ではまだ分からない金貨。
星が、息をのむ。
「……四つのスート、全部入ってる」
隠者は、穏やかにうなずいた。
「ええ。どれも、まだ“使い方を習う前”のものですね」
愚者は、座り込んでしまった。
「ねぇ先生。
ボク、ずっと“何もない”って思ってたんだよ。
行き先も決めてないし、仕事も肩書きもないし、
『ちゃんとした自分』なんてどこにもないと思ってた。
でもさ。
“何もない”と思ってるリュックの中に、
こんなにいろんなものが詰まってたなんてさ……」
そこまで言って、少し黙る。
「正直、ちょっとこわくなっちゃった」
——星が、愚者の隣にそっと腰を下ろす。
「こわい?」
「うん」
愚者は、ランプの光に照らされたリュックを見つめる。
「だって、これ全部“ちゃんと使え”って言われたらさ。
途端にボク、“自由な旅人”じゃなくなっちゃう気がするんだ。
ワンドは、情熱のために使いなさい。
カップは、人と分かち合うために満たしなさい。
ソードは、正しい判断のために振りなさい。
ペンタは、安定のために貯めなさい、って」
愚者は、小さく肩をすくめる。
「そんなの、もう“大人のカードたち”の仕事じゃない?」
塔が、遠くのテーブルから苦笑まじりに口をはさむ。
「まあ、そう言われると、ぐうの音も出ないな」
ソード3も、包帯をいじりながらうなずく。
「ボクたちは、だいたい誰かが傷ついた“あと”に出てくるからね」
隠者は、ランプの火を少しだけ強くした。
「愚者さん」
「なに?」
「あなたの仕事は、
“この四つを完璧に使いこなすこと”ではありませんよ」
愚者が、きょとんとした顔をする。
「あなたは、ただ——
“何も持ってないふりをやめる”ところから始めればいい」
——星が、愚者のリュックの中をそっとのぞき込む。
「見て。
このワンド、ちゃんと火がつく前の、きれいな木の匂いがする」
カップの底には、
まだ言葉になっていない感情の水が、揺れている。
ソードの刃には、
「本当はこう思ってる」という、まだ声に出されていない一行が光っている。
ペンタの表面には、
「生き延びるためにやってきた全部」が、小さな傷のように刻まれている。
星は、静かに言った。
「これ全部、“古い菜々”がずっと背負ってきたやつに似てる」
愚者が、少しだけ笑う。
「うん……多分ね」
——隠者が、愚者のほうへランプを近づける。
「あなたは0番。“まだ何者でもない”的な顔をしていますが。
本当は、“全部になる前の魂”なんですよ」
愚者は、ランプの中の火をじっと見つめた。
「全部になる前の……魂」
「そうです」
隠者は続ける。
「ワンドだけで生きれば、燃え尽きてしまう。
カップだけで生きれば、溺れてしまう。
ソードだけで生きれば、切りすぎてしまう。
ペンタだけで生きれば、固まりすぎてしまう。
でも、あなたは、
まだどれにも“決めてしまっていない光”なんです」
星が、ふっと笑う。
「だからさ」
星は愚者の肩を、ぽんと叩いた。
「“何も持ってなかった”んじゃなくて、
“まだどれにも名前をつけてなかっただけ”なんだよ」
愚者の目が、少しだけ潤む。
「……じゃあボクは、
“何もない失敗作”じゃないの?」
「むしろ逆でしょう」
隠者は、はっきりと答えた。
「どこにも属しきっていないからこそ、どこへでも歩き出せる。
あなたが一歩目を踏み出すたびに、
ワンドも、カップも、ソードも、ペンタも——
“じゃあ今回は、こうやって使ってもらおうか”と、
少しずつ形を変えていくんですよ」
——休憩室の片隅で、死神が黙ってその様子を見ていた。
黒いローブの中で、ほんの少しだけ、口元がゆるむ。
「……ようやく、鎧を脱ぐ気になったか」
声には出さずにそうつぶやいて、椅子にもたれ直す。
いつかまた、愚者が
「もうこのリュックでは歩けない」と言う日が来るだろう。
そのとき、死神の順番が回ってくる。
リュックから、もう役目を終えた古いものを降ろす番だ。
そしてもっと深く疲れきって、
歩く力そのものが尽きてしまった夜には——
愚者の“からだ”は布団の中に横たわり、
“魂”だけが、いちど隠者のランプの中へそっと避難してくる。
外から見れば、ただ何もできずにうずくまっているだけのようでも、
そのあいだ、魂は火のそばで、静かに息を整えている。
灯が消えないように守られながら。
その小さな灯りが、いつか星のカードの八芒星として空に戻っていくことを、
このときの愚者はまだ知らない。
でも今夜は、まだその手前だ。
「ただ、“何も持ってないふり”をやめただけ」
それだけでいい夜もある。
——愚者は、リュックの紐を持ち上げた。
さっきよりも、少しだけ軽く感じる。
「ねぇ先生」
「なんでしょう」
「ボク、このまま“何も考えずに飛び出す役”じゃなくてもいい?」
隠者は、少しだけ笑った。
「飛び出したくなったら、飛び出せばいい。
立ち止まりたくなったら、立ち止まればいい。
ただ一つだけ、覚えておいてください。
あなたは、“空っぽだから歩いている”のではない。
“まだ名前のついていないものを、
これから少しずつ確かめるために歩いている”ということを」
星が立ち上がる。
「じゃあ、出口まで一緒に見送りに行くね」
愚者は立ち上がり、リュックを背負い直した。
さっきよりも、足取りは軽い。
それでも、前より少しだけ、自分の影の重さを意識しながら歩いていく。
——人間たちの世界では今日も、
どこかで眠る前に天井を見つめている人がいる。
「私なんて、何も持ってないし」
「もう、何を目指したらいいか分からない」
そう言いながら、心のどこかでは、
まだ手放していないワンドやカップやソードやペンタを、
ぎゅっと抱え込んでいる夜。
もし今、
「何者でもない自分」がこわくなっている人がいたら——
その奥に、まだ名前のついていない光を背負った愚者くんが、
静かに立っているかもしれません。
そして、どうしても歩けない夜には、
その子の魂だけが、隠者のランプのそばで小さく丸くなって休んでいてもかまわないのだと、
そっと許してあげられますように。
その子に、こう声をかけてあげられますように。
「全部うまく使えなくていいから。
せめて今夜だけは、
“何も持ってないふり”をやめて、一緒に座ってみようか」
タロットの愚者は、
何もかも投げ出した“空っぽ”ではなくて、
「まだ、どんな生き方にもなれる“魂のまま”でいる勇気」を、
こっそり描いているのかもしれません。
今夜もどこかで、
愚者のリュックの中身が、少しだけ優しく見える人が増えますように。
菜々



